イマジナリーフレンド

 草原が広すぎて、心臓がさらされるような気になる。
 それなのに吹く風の中にカレーの香りが混ざっているのがグロテスクだった。草原のまんなかにケヤキがひとつ、この世で確かなものが一つはあることを証明するかのように立っていた。そしてその隣にはヘリコプターの羽が、まるで大きな怪物の墓標のように地面に突き刺さっていた。
 ケヤキの幹に触れている私の横には、女の子がしんみりと立ち尽くしていて――
 いつも彼女に気づくと同時に――
 爆風で彼女の体がボールのように吹き飛ぶ。

 目がさめると漫画喫茶で寝てしまっていた。すでに夜中なのかもしれない。周囲は暗くしんとしていた。
 それに比べて私は長距離走を全力疾走したあとのように洗い息が止められず、Tシャツは汗びっしょりだった。お気に入りのTシャツで左肩にアニメのキャラクターがワンポイントであしらわれている。そして頭痛がひどい。あの夢を見たあとはだいたいこんなものだけれど、頭痛は今までなかった。
 周囲を認識することで少し気分を落ちついてきたので、ピンクのサンダルを履き、頭をおさえながら軽々しい個室のドアを開けた。タバコの香りが充満している。私はもう一度大きく息を吐いて外に出る。
 私が夢を誰かと共有していると気づいたのは、ずいぶん前のことだったと思う。気がついたというよりは、知っていた、という感覚に近い。全部の夢ではない。あの草原の夢だけを、私は誰かと共有していると知っていた。
 それが夢の中の彼女だということにもすぐ気がついた。彼女は誰だか分からないが、彼女の体が吹き飛ぶまで、私たちは楽しげに話している。何を話しているかはどうしても思い出せないけれど、彼女の笑顔を見るに、私たちはずいぶん親しいのだろうと思う。
 私がドリンクバーでコーヒーを飲もうとカップに手を伸ばそうとすると、ボサボサのパーマのおばさんが私など意に介さない様子で奪い取るようにカップを取り、ドリンクバーのボタンを押した。私はムッとしたが身を引いて、彼女の後ろに下がる。ガリガリと雑な音を立てて、彼女のカップに黒い液体が注がれてく。
 どうやら世界は私を認めていない。それを知ったのはずいぶん前の病院だった。どんな事故かは思い出せない。ただひどい事故があって私は気がつくと病院のベッドの上にいた。その事故では何人かの被害者がいて、周囲のベッドはその被害者の家族だろうと思われる人たちに囲まれていた。
 悲観した鳴き声、喚き、あるいは安心した声に周囲は汚染されていたけれど、私のベッドの周りには誰もいなかった。頭がひどく痛んでいたけれど、手を握ってくれる人もいなければ、抱き寄せてくれる人もいなかった。
 しばらくそこで過ごしたけれど、誰もお見舞いにも来なかった。周囲のベッドには必ず誰かが寄り添っている。その中で私だけが一人きりだった。それで私には誰か親しい人がいるけれど来れないのではなく、私には誰も親しい人がいないのだ、と知った。
 そしていつしか、親しげに遊ぶのは夢の中のあの子だけになった。
 カップを取り、オレンジジュースを選んだ。それは幸せそうな色をしていたが、口に運ぶといつもげんなりする。味がしないのだ。今日は体調が悪いからというわけではない。私は味覚が失われているようだった。私はずっと前に飲んだオレンジジュースの味を思い出しながら、このジュースを何回も飲んでいる。
 それにしても今日は頭痛がひどい。冷たいものを喉に通したら楽になるかと思ったが逆効果だったようだ。冷やされた血管にドクンドクンと血が通うたび、頭が金属で締め付けられているようになってしまった。
 耐えきれずに手近な丸テーブルをつかんで座り込む。めまいがして、目が入ってくる光を扱いきれなくなっているようだった。とにかく周りが白くなっていく。
 倒れる――と思ったのが、私、の最後だった。

「ごめんなさい」とか細い声が聞こえた。

 気がつくと草原の中にいた。ケヤキの幹が視界の半分を埋めている。もう半分に彼女が立っていた。くしゃくしゃに泣きはらした顔だった。今日は初めて、声が聞こえた。彼女は何度も「ごめんなさい」を繰り返して涙を流している。その声を聞いて、私は気がついてしまった。
 ケヤキはあるが、ヘリコプターの羽はなかった。
しばらくして疑問に思っていたことを聞く。
「あの漫画喫茶は――」
「お姉ちゃんが助けてくれたのが嬉しくて……」
「そうだったんだね」と私はかろうじて笑った。あんなところに数年も閉じ込められたことを責めたい気持ちもないではないけれど、それが私の役目だったのだと思う。なによりも彼女は私よりずっと幼い。
「もう大丈夫なの?」と私は聞く。空からバラバラと恐ろしい音が近づいてきているのが分かる。私は体験したことないのに、あれが地獄からの音だということを知っている。それがそろそろたどり着く。
「分からない……ごめんなさい……」
「でも、もう行けるんでしょう?」
「うん、お母さんたちの声も聞こえたから、もう行かなきゃ」
「そっか」
私はしゃがみ込んで、「私のことは思い出さなくていいよ」と彼女を抱きしめた。彼女は「ごめんなさい、お姉ちゃん」と小さな肩を震わせている。その左肩にはあのキャラクターのワンポイントが入っていた。
 バラバラ、バラバラ――
 ついにケヤキの向こう側で、世界が弾ける音がした。
 私はぎゅっとケヤキの幹の陰へ彼女ごと潜り込んだ。すぐに爆風がたどり着き、目を開けていられなくなる。いつもならここで彼女は、ケヤキの幹からはずれていたため吹き飛んでしまっていた。私は絶対に離すまいと、腕に力を入れた。
彼女は何も言わず、ただただ私の腰をつかんでいた。
「もう大丈夫!」と私は必死に叫んだ。爆風が私たちを包む。できるだけ彼女が煙を吸わないように、Tシャツで彼女の顔をふさいだ。これが私が生まれたときからの役目だったことを知った。
 黒い煙が周囲を覆うにしたがって、意識が遠のいていく。
 彼女の中に戻っていくのだ。
 次にめざめる病院のベッドでは、家族に囲まれて祝福されるのだろうと思う。それを思うだけで満足な気持ちになれた。ただもう少し早く気づいていれば、彼女ともっと話せたのかもしれないと思うと心残りだ。
 願わくば、幼い私の友人に幸せを。