米澤穂信著「折れた竜骨」を読んで
本書を読了した時、ふと小学校の国語の授業を思い出した。その時、教科書で取り上げていた作品は、立原えりか著「あんず林のどろぼう」であった。そのお話自体も心温まるものなのだが、本書とは直接関係がないのでそちらを語るのは別の機会として、その時の担任の先生が「良いお話とはどんなものだろう」と生徒に質問した。先生は「たぶん続きを自分で想像してしまうようなお話だと思う」と言って、その「あんず林のどろぼう」の続きを各自考えてくるように宿題を出した。当時から怠惰一辺倒の私だったが、なぜかその宿題には大真面目に取り組んだ記憶がある。ただその私が書いた「続編」はおぼろげに覚えている限りでも至極つまらないのだが、それを語るのもまた別の機会に任せよう。
なぜそんなことを語るかと言えば、私はこの「折れた竜骨」の続きを自然と想像してしまったからだ。だから先生の言葉を借りれば、これは「良いお話」である。ページを開けた瞬間、物語というボールが様々な光を雄弁に放ちながら落ち、そしてページを閉じることで跳ねた気がした。ここから先、どこにそのボールが向かうかを任されたような、気持ちの良い余韻を感じた。
本書は第64回日本推理作家協会賞を受賞した、推理小説、なのだと思う。確かに探偵役が容疑者達に聴取を行い、証拠をそろえ、犯人を暴く、その形式に則った推理小説、なのだと思う。だが実際に文字を追ってみると、12世紀欧州を背景として、剣と魔術が活躍するファンタジーとしての趣きの方が私には鮮やかに映った。小さな島二つからなるソロンを舞台に、老兵が不可解な死を遂げるところから物語が始まる。その土地を治める領主とその一族、「暗殺騎士」を追う秘密めいた騎士とその従者、個性的で怪しげな傭兵達、吟遊詩人、そして海の彼方より襲い来る不死のデーン人、と登場人物を並べるとファンタジーとしか言いようがなく、実際、デーン人との戦闘シーンなどはテンポが良くスリリングであったし、時折描かれる史実と絡められたフィクションなどは、著者の素地の広さを感じた。そのような味のある雰囲気を保ちながら、ファンタジーとミステリーが多少説明口調な箇所がありつつも、違和感なくしっかりとまとめられている怪作の一つであろう。
その絶妙なブレンドの中でひときわ私が感銘を受けたのは、領主の娘という主要登場人物で本作の語り部であるアミーナの男気である。恐ろしいデーン人が己の治める土地を攻めてきた際、激しい戦いの中で命を落としそうになりながらも、彼女は「私は彼らに命を賭けろと言ったのだ。自分だけ逃げるわけにはいかない」と、その戦いの最中へ留まることを決意した。その16歳の少女の責任感と勇気を、私は真似することも出来ないだろう。ミステリーとしての見せ場がラストに用意された第五章「儀式」という解決編であるのであれば、ファンタジーとしての見せ場は間違いなくこの戦闘シーンを含む第四章の「嵐の鐘」だ。ちなみにそのアミーナの兄、アダムは臆病で情けない男なのだが、それがラストにコミカルな味も付け加えている。
ところで推理小説を読む時、どのように読み進めるだろうか。証言や証拠を理論付けて犯人を考える読み方、次のページの驚きを素直に楽しむ読み方、色々あると思う。本書では「理性と論理は魔術をも打ち破る」と語られているので、たぶん、前者で読み解くことを期待されているのだろう。しかし私はだいたい「もしこの容疑者が犯人だった場合どのような結末になるだろうか」と考え、自分好みの結末か確認しながら読み進めてしまう。しかもなぜか悲しい結末へ考えてしまう癖があるので、本書の結末も酷く悲しい終わり方を想像してしまっていた。今回の場合、そのあてが(ある意味嬉しい事に)外れてしまったのだが、諸手を上げて喜べる結末というものでもなく、それなのに淡々とした終わりが選ばれていた。それが疾走後のクールダウンのように、心地良いリズムを生んでいる。
物語をまた反芻し、頭の中で「続編」を組み立ててみたい。きっとそれはつまらない出来であろうが、本書の良さを何度も肯定する作業になるだろう。一つだけ。本書の中で矛盾を感じた。それは本書の大きなテーマであろう、「魔術を論理で破る」という点である。なぜ魔術を骨子にしておきながら、それを作中で否定せねばならないのか。意識されたものでないのかもしれないが、本書に出てくる「魔術」の多くは「敵を打ち破るために手を出した禁じられたもの」であり、人の論理、思考をもって、それに打ち負かされないよう、過度に依存しないよう、主人公達が悪戦苦闘し、そして勝利する。それは人がただ欲望に流されないよう、己を律する物語にも読めた。まさに「折れた竜骨」はその象徴なのではないか。本書で学んだ教訓をこれからの人生で役立てたいと思います。
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特に意味もなく、夏の終わりなので読書感想文を書きました。