2022/04のまとめ

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最近、そういえば「試合」やってないなーって気づいて、なにか試合があるものが少し気になっている。というのも、剣道の試合のような、あのチリチリとした緊張感を全く感じなくなって久しい。そう思うと生物として弱くなった気がする。

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2022/02のまとめ

Summary

娘とスマブラをやるようになりました。eスポーツが社会的に確立されてきたというわけではないんですが、ゲームだろうが漫画だろうが遊びだろうが、熱中できるものをどれだけ子供時代で見つけられるかは大切なことだと思っています。

なのでできる限り「やりたい」という気持ちを後押ししつつ、ただ消費するだけにならないように方向づけることは意識をしています。と、考えつつ、それは自分にも言えることよなぁと思ったりしました。

2月は体調悪かった日も多かったり、公私ともにいくつかの課題を同時に解決しなければならず、歩みは比較的鈍重だった気がします。ただ考える時間は増やせたので、ぐいーっと形にしていきたいと思います。

3月のテーマはこんな感じでしょう。

  • 家族の体調を維持、向上させる
  • 仕事のフロー、スタンスを変える
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2022/01のまとめ

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1年のまとめに含めてしまった12月分を気持ち含め。

基本的にあんまりTwitter見てないんですが(ある程度の問題発言)、体感上、フォロワーの鈍感率、みたいなものがあって、それは増えていくよなぁ、と感じています。鈍感率というのは造語です。

何かというと、あるAさんがいたとして、Aさんはフォロー/フォロワーで自分のTwitterの環境を作っていきます。基本的にTwitterで無理する必要はないと思うので、その環境は自分にとって居心地のよい、コンフォートゾーンに似た環境になるはずです。

AさんをフォローしているBさんがいます。

AさんにとってBさんはフォロワーの一人ですが、Bさんがアンフォローしない限り、BさんはAさんにとって「発言を許容してくれる人」になるわけです。つまり時間経過とともに、Aさんのフォロワーは、「発言を許容してくれる人(Aさんに鈍感な人)」にこされていきます。

そうするとAさんはだいぶ気をつけていないと、強気の発言が増えていきます。許されるラインが相対的に上がっていくためです。そういったコロニーがいくつかフォロー/フォロワーの関係で生じていて、そのベン図の重なる位置に自分がいる、ということになります。

そうなるとタイムラインには強い言葉が時間経過とともに溢れていくわけです。よく表現すると、気心の知れたタイムラインと言えるのかもしれませんが、強い言葉は見てるだけで疲弊を招くものです。

それに思い至り、元気なときじゃないと、あまりTwitterを見ないようになりました。

これはまぁTwitterのフォロー/アンフォローが簡易で環境が素早く構築されていくため分かりやすいのでしょうが、ほぼすべての人間のコミュニティに言えることだと思います。自分も何度も何度も失敗しているので、ずっと謙虚には気をつけていたいなぁと思うのですけれど、何度も失敗するんです。

長続きしない一年の初心と一緒なんだなぁ。(まさを)

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2021年の振り返りと2022年への向き直り

あけましておめでとうございます。

お正月が終わりますね。明日から仕事です。よろしかったら自分専用新年特設サイトをご覧ください。これを作るのが今年初めてのタスクでした。1月中くらいでサイトは削除します。

ake-o.me のドメインを実は持っていて、結構ビッグワードだと思っているので捨てられず持て余しています。何かに利用するわけでもなく、新年にこうして適当なサイトを作って親族、友人に公開しているだけのドメインです。

この5日間の年末年始休暇は、3日くらいは徹夜して遊びました。あと残り数分で本を100冊くらい読み、家族と心ゆくまで遊び、ブレス オブ ザ ワイルドを始め、そしてクリアする予定でした。

さて、2021年の振り返りと、2022年に対して向き直ってみたいと思います。自問自答なんで長いっす。

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2021/11のまとめ

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ペットが死んだ話なのでそれなりに暗いのですが、以前こんなことを書きました。

このルーシーの写真はまだリビングの隅で見ることができますし、こどもの国などに行ってモルモットと触れ合うことも多いので、記憶が触発されることも多いと思うんですが、このとき2歳だった娘はかわいがっていた「ルーシー」のことをうっすら忘れ始めているようです。たぶんこのとき千葉に住んでいたことも、ほとんど忘れ始めているんでしょう。

それでも何か引っかかることがあるらしく「なんだっけ?」というもやもやした顔をするのですが、そういった記憶の残酷さというか、当たり前のことに対して、大人時間で過ごしている大人が「一緒にいたじゃん」とか「あんなに可愛がってたじゃん」というのはほとほとおかしな話なので、暖かい気持ちで抱きしめながら、時間はやっぱ進んでるんだなぁと思わざるをえません。

11月はなかなかにハードで、始まる前から乗り越えられないかもしれないことすら覚悟していたのですが、気がついてみれば年の瀬が近づいており、乗り越えられた、乗り越えられなかった、関係なく、時間はいつも僕らを置き去ろうとしています。勝手にスクロールしてしまうマリオのステージをいつも走っているみたいだ。

失うことにできるだけ自覚的になりながら、穏やかに疾走していきたいと思います。

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リモートミーティングで顔を映す抵抗について考えること

エンジニアの多くが数字を半角で入力したがる生き物だと思っているんですが、入力しようとしているドキュメントのフォントサイズが大きくなるにしたがって、エンジニアでも全角で入れる人が多くなっていく、そんな現象をこの前発見しました。こんばんは。

もはやリモートワークなしでは生きられない体になってしまったナァと、そんなことを思いながら書くリモートワークシリーズ第3弾です。前2本はnoteです。

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2021/10のまとめ

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アイキャッチ画像は息子の2歳のものですが、僕自身も今月で39歳になりました。歳を意識するのが誕生日のときだけになってくるので、結構そろそろあやふやですが、おそらく39歳です。体力の衰えや骨格、筋肉の痛みも特にまだ訪れていないので、健康的にはまぁまぁいい歳の取り方なんじゃないでしょうか。

ところで皆さんは自分が死ぬときをイメージしますか?

僕は結構な頻度で「自分が死ぬとき」や「家族が死ぬとき」を意識したり想像したりしてるんですね。というか、「いま死んだら何に後悔するだろう?」という問いというか、感覚は常に脳裏にある気がします。

だからといってジョブスみたいに

If today were the last day of my life, would I want to do what I am about to do today?(もし明日が人生最期の日だとしたら、今日することは本当にやりたいことだろうか?)

みたいな強い生き方をするわけでも、したいわけでもありません。どちらかというとルターが言ったらしい「例え明日世界が滅ぶとしても、私は今日りんごの樹を植える」とか、ゴルバチョフ元大統領の「収穫には立ち会えないかもしれないが、できるだけ多くの種を蒔こう」という言葉の方に感銘を受けています。

宮部みゆきの「誰か」だった気がしてるんですが、自分が死ぬときの後悔として「みかんを買わなかったこと」だったか「りんごを買わなかったこと」だったか、とにかく日常の小さな後悔をしながらキャラクターが死んじゃう描写があって、ある意味すごくリアルだなぁと思いながら少し怖くなりました。

「日常っていつか失われるし大切だよね」ってことを破綻なく分かっているつもりにはなっていたいし、強い暴力や言葉で日常を破壊する人には敏感になります。努力せずケンカ別れ上等みたいな考え方はできず、いま玄関を出ていった人にはもう会えないかもしれない、と常に思って家族を送り出したいと思っています。

そうじゃなかったら、それって死ぬ瞬間に絶対後悔するよね?って思ってしまいます。よく言うんですけど、「いなくなってから大切だということに気がついた」というのは想像力の欠如だと思っていて、自分や他人に対して、そうならないように気をつけたいなぁと思っているのです。

軽んじすぎることなく、重んじすぎることなく、日常を淡々と大切に、「あいつに出会えて人生ちっとは良くなったなぁ」と葬式で言ってもらえるような、そんな人格になっていきたいと39歳は思っています。

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2021/09のまとめ

人の「適性」とは何か、を考えるシーンが多くなりました。

自分のこともそうですし、子どもたちのこともそうですし、立場上、仕事仲間のことも考えることが多くなりました。そういうことを考えれば考えるほど、思い出すのがB’zです。

僕はB’zでいうと「さまよえる蒼い弾丸」や「今夜月の見える丘に」が好きで、それをカラオケで歌いたいとずっと思っていました。「LOVE PHANTOM」とかも歌いたいです。そこで、歌えるようになるにはと考え、ボイトレに通っていた時期があります。

ですが、意気揚々とボイトレに臨んだ僕に課題曲としておすすめされたのは平井堅でした。平井堅もなかなかの高音でなかなかに難しい歌い方をしてますが、こう、B’zとは違うだろう、僕のやりたいロッケンロールじゃねぇだろう、と思いました。どうにも声質が合っていると考えられたようです。

そこで僕が学んだこととは「やりたいものと、合うものと、できるものは違う」ということです。ボイトレは引っ越しで行けなくなってしまったのもありますが、続けることができず、当然平井堅も歌えることなく、カラオケが多少うまくなっただけで終わりました。

「やりたいもの」は意思の域なので、人によっては本当に難しかったり、簡単だったりするでしょう。僕なんかはやりたいことがそこそこ出てくるので、「やりたいことがない」というよく聞く言葉は本当かな?とか思ってしまいます。

「合うもの」が僕の思う適性の域です。何が合っているかは分かりません。例えば平井さんを勧められた僕は声質が合っていたのかもしれませんし、ノリのタイミングが合っていたのかもしれません。他の例えで言えば、長距離走が合っている人はスタミナがつきやすいのかもしれませんし、コンビニのバイトが得意な人は夜型なのかもしれません。

「できるもの」は能力の域です。これは厳然とその時点で「できる」か「できないか」です。僕はあの時点で稲葉さんのように飛び出しちゃうことができませんでした。一流の寿司職人がプロ野球選手をなかなかできないでしょうし、5歳児に宇宙船開発はなかなかできないでしょう。

で、この3つがどのような関係になっているか?を考えてみてください。面倒なんで図は書かないすけど、三角形の頂点にこの「やりたいもの、合うもの、できるもの」があって、そのバランスで能力や特性が決まり、それら3つに長じているものがいわゆる「天才」なのだ、と安易に考えてしまいそうですが、そう思っていた時期が僕にもありました。

できたか、できなかったかは、ある時点の結果でしかありません。その時点とは人生が有限ゆえに、受験や就職やオリンピックや、あるいは今際の際なのかもしれませんが、今から僕がオリンピックで金を取る可能性も0%とは言えません。まぁ0ですけど。

「できない」から「できる」のタイムラインを歩んでいくとして、「やりたい」と「合う」が絡み合っているとすると、「やりたい」が継続するための燃料なのは分かりやすいと思います。継続性、あるいはかけられる時間そのものと言っていい気がします。やめろと言われても、やりたいと時間を投入してしまいますからね。

では、「合う=適性」とは何なのか?

漫然と時間ばかりを投入して、昨日と同じ時点を延々と繰り返しても、「できない」から「できる」を歩んでいくことはできません。それは行動不能になったルンバです。そこが階段だと気づいて、一歩一歩上がる行為、要するに学習効率、「気づきやすさ」が「合うもの」の正体なのではないか、と僕は考えるに至りました。

気づき「やすさ」としたは、基本、たぶんここに身体的特徴も含められるのです。僕がいきなりB’zを歌っても阻害要因が多く、歌唱というジャンルで気づけないものがいっぱいある、それよりは平井堅を選んだほうが気づきが早いだろう、というものです。「黒人はバネがちげぇ」みたいな極限の適性比較はまた違うレベルなんでしょうけど。

やる気が強く、時間をかけられればいつかはできるようになる、逆に気づく数を多くすることができれば、時間を短縮できるということです。このため今の僕が考える3つの関係性は下記です。

やりたいもの ✕ 合うもの = できるもの
継続性(時間) ✕ 学習効率(気づきやすさ) = 成功体験

つまり「適性」とは、物事にあたってどれくらい気づく素養があるか、学習効率が良いものか、なのではないか、と考えるに至りました。そこまで分解すると、今まで「天才的な勘」みたいなものでしか言えなかったものに再現性が与えられるのではないでしょうか。

継続は力であれど、効率も肝要。そんなことをうっすら考えたり考えなかったりして、自分の習慣を作ったり、子どもに「さっきのが良かったからできたんだね」などと話す日々です。あーあと「やりたいもの」は自己効力感が関係してるんだろーなーとは思うものの、それは別の話。

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