イマジナリーフレンド

 草原が広すぎて、心臓がさらされるような気になる。
 それなのに吹く風の中にカレーの香りが混ざっているのがグロテスクだった。草原のまんなかにケヤキがひとつ、この世で確かなものが一つはあることを証明するかのように立っていた。そしてその隣にはヘリコプターの羽が、まるで大きな怪物の墓標のように地面に突き刺さっていた。
 ケヤキの幹に触れている私の横には、女の子がしんみりと立ち尽くしていて――
 いつも彼女に気づくと同時に――
 爆風で彼女の体がボールのように吹き飛ぶ。

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stand alone

「やっぱり本物は違うのかな……」

 そう言いながら、彼女の艶やかな黒髪が風に流れた。その流れに彼女は耳の上から手櫛を通して、頭ごと小さくまるまった。その動作がまた酷く可愛らしくて、いっそ僕は風になって彼女を暴風域にさらしたいと思った。まだ付き合い初めの僕らは初々しくて、彼女との距離三歩の所で僕は自転車を引きながらそんな妄想をする。彼女の家はこの川べりの道を川上の方へ少し行ったところで、高校から近いため自転車通学ではない。対して僕の家と言えば、この川べりの道を川下にかなり行った方にあるので、高校へは自転車通学をしている。付き合い初めの僕は、彼女を暖かい目で見つめながら、彼女の帰宅に付き添っているというわけだ。何、僕の帰路なんか大したことない。彼女の家から一時間程度である。そのくらいで夕日に染まる彼女の横顔を見られるのなら安いものなのである。

 そして僕の可憐な彼女曰く、長野のどこかのお寺の近くに、何とかという誰かの美術館があるのだという。正直言って、僕は絵画に関して、人類の有史以来稀に見る無関心さを示している。いいや、有史どころではない。ニホンザルにペンを持たしてみたって絵を描いてみようかと閃かせるだろう。でも僕はしない。もちろん僕は学生であり、義務教育を終えている以上、強制的かつ義務的で人の感性というものをまるで冒涜しているとしか思えない美術の課程なるものを修めてきた。そういう意味でニホンザルより高等である。山で遠足がてら与えられた写生の時間に何を描いたのかと言えば、とりあえず紙全体を青色に塗りたくった後、「虹」と書いてみた。絵ではない。文字である。それが中々好評を博したのだから感性というものは分からない。あれほど爆笑していた美術の先生が、どうして成績表に最低ランクの数字を書き込んだのか理解に苦しむばかりである。

 僕の話ではなかった。可愛らしい彼女の話である。ああ、もう、本当にその横顔は居間に飾っておきたいほどだ。その彼女曰く、彼女はその画家に最近、彼女の言葉の端々から察するに、その最近というのはおそらく昨日のことであろうと思う。彼女は影響されやすいのだ。まぁ、その彼女の最近の話を要約すると、その画家にとても感銘を受けたのだという。それはそれでとても良いことだ。絵画鑑賞という趣味が出来たのならば彼女は内面からさらに美しくなろうと思う。そして、その本物を見たいというのだ。

 これは中々にして、彼氏として困った事態であった。彼女が儚げにため息をつく。「でも行けないよね」という言葉の代わりに出てきた、寂しいため息である。僕は彼氏としてそのため息を、すくって然るべき対処をした後、喜びに変えて彼女の心に再び返してあげなくてはならない。例え僕という存在が世界に存在する全ての絵画という絵画から断固断絶隔離遮断されているとしてもだ。

 僕は立ち止まった。

 彼女も立ち止まる。

 僕を振り返る。夕日が二人を照らして、影は長かった。彼女は小首を傾げて僕を見た。おそらく、この赤い光が強いコントラストを生み出して、僕をいつもより三割程度には魅力的に見せていると思う。さらに僕の決意が滲んだ太い眉と、固く結ばれた一文字の口は一度彼女の目で収斂され、ピンホールカメラの如く彼女の心に強く焼きつくことだろう。

「行こうよ、そこ」
「え……? でも遠いよ」
「いいよ、行こうよ。二日くらいの日程で。僕がバイトするからさ」
「それって泊まりってこと?」
「い、いやいや、そういう意味じゃなくて! ぜんぜん、泊まりじゃなくていいよ!? ゼロ泊二日とか。駅で過ごすとかでいいよ!?」
「それはイヤかも……。それに興味なんてないでしょ? 絵なんて」
「あるよ。いっぱいあるよ」
「じゃあさ、さっき、私の言った美術館の名前、覚えてる?」
「……むろん、覚えてるとも」
「言って」
「……長野お寺美術館」

 彼女がそこで鼻で笑ったことは、はっきり言って付き合って初めての挫折だったわけだけれど、これは僕が悪いので仕方ない。覚えている名詞を並べるしか僕に術はなかったのだ。彼女は再び前を向き、リズムに乗った歩調で歩き出した。僕を突き放すという彼女の初めての行動に、まだ対処法も学んでいなかった僕は、人生に存在する重要なクイズのうちの一つを間違ってしまったらしい、ということに気づいて、謝るでもなく、呼びかけるでもなく、黙って彼女の後ろにつき従った。

 しかしながら、それで諦めるほど、僕は腰抜けの男ではない。彼女が一度「この彼氏は駄目だ」と思ってしまったのならなおさら、諦めるわけにはいかない。その「駄目だと思った彼氏」から、長野行きのチケットをプレゼントされたらどうだろう。シミュレーションしてみるに、僕がそんなことをされたら口を鼻を押さえて泣く。鼻がツンとするだろう。「そんな……あの時の……」と言いながらむせび泣く。「ごめんね……ごめんね……」と言いながら抱きつくだろう。いや、さすがに現実としてそれはないか。僕は反省した。僕は自分を動かす妄想力と、着実のための現実感を絶妙なバランスで兼ね備えているのである。

 次の日からバイトを始めた。高校生は時給百円落ちとか、大人社会は社会的弱者を何だと思っているのだろう。しかも夜のバイトは入れてもらえない。朝、高校が始まる前二時間と、夜、高校が終わってから二時間のコンビニのバイトである。時給650円。「ありありあしたー」とトカゲ語か何かとしか思えない不気味な言葉を操る駄目なフリーターより、「ありがとうございました!」と応援団長並のシャキシャキ感をもって接客にあたる僕の方が時給が100円も安いのが大いに気に食わない。時給650円で、一日四時間、週五日で、一ヶ月だいたい五万程度。何も知らない彼女のために二人分であるので、余裕をもって十万は欲しい。となると二ヶ月はこの生活が続くわけである。今は六月だ。決行は夏休みの終わり、二十五日以降という目標にしておけば何となかる。夏休みに入れば、もっとバイトの時間を増やせるだろう。長野に行ってからのお小遣いも増えるに違いない。それまでこのフリーターと異種言語でコミュニケーションを図ってみようと決心した。

 バイトを始めてみて分かったことは、学業と仕事と恋愛の三重生活は思ったより大変だということである。まずこの中で優先すべきは恋愛である。彼女のためにバイトを始めたのに、彼女との付き合いが疎かになってしまったらまるで意味がない。時間が拘束される時間、彼女と会うことは出来ないので、仕方なしに「燃え上がる衝動」という理由でバイトをしていることは公言しているが、いかなる時も彼女が優先である。この一ヶ月の間に、僕らの距離は三歩から二歩に進展した。それから仕事、つまりバイトである。これは決心した通り、休まず続けている。言ってみれば毎日ルーチンワーク。コンビニに訪れる人も何度も見た顔の人が多く、こちらは機械的な作業がほとんどだ。いっそコンビニ全体を自動化してしまえばいい、と思う。今のところそうなっていないことを利用して、僕は働き続けた。とりあえず学業は捨てた。愛と金の力があれば、人生何とかなるだろう。

 七月分の給料を貰った頃、不穏当な噂を聞いた。高校生活の恋愛で、プライバシーなんてなきに等しいのである。スキャンダルは光速よりも速く、夏休みだと言うのに本人たちの耳に入る。なぜ「誰にも言わないでね」なんて言いながら、「お前の彼女、浮気してるぜ」なんて話を当事者である僕に言えるのだろうか。誰にも言うわけないではないか。もう少し考えてからものを言え。噂というその伝言ゲームは、めでたく僕をもって正しく終結を迎えたのである。

 もちろん僕は信じない。

 バイトを休んで、カフェで彼女を柔らかに問いただしてみた。問いただしてみたという言葉も正しくない。励ましである。彼女もおそらくは失礼な噂に晒されて、心身共に傷ついているに違いない。ここで僕が彼女を問いただすことなんて出来ようはずもないのである。彼女の整った顔が下を向き、長いまつ毛が震えているようにも見えた。彼女の私服は今日は白地に淡く横にストライプの入ったTシャツに、膝より少し上のデニムのスカートで、実に夏らしかった。僕曰く、今、僕らの周りにどうやら下世話な噂が流れているけど、なに、気を落とすことはないよ。それはただの噂なのだから。僕は君を信じているし、君も僕を信じてくれてるのは分かってるから。たぶん、もう少しで君が喜ぶようなニュースがあって、それが終われば、もう少し長い時間会えるから。

 そう言いながら、僕は初めて彼女の柔らかい手を握った。

 そして彼女は顔を上げて、他に好きな人が出来たの、と言った。

「は?」

 僕はナイアガラに投げ捨てられたモアイ像のような気持ちになった。終始一貫して「は?」という言葉で彼女の真意を確かめようとしたけれど、哀れなことに可愛い僕の彼女もトカゲ語か何かしか話せなくなってしまったようで、コミュニケーションが上手く成立しない。分かったことは、僕の他に好きな人が出来たらしいということと、僕と別れたいと思っていること、彼女は全く泣かなかったということだけだった。幸いにも、僕の財布の中には高校二年生としてはきっと平均より少し多めの金銭がなぜか存在したので、コーヒーの四倍程度のお金をその机に叩きつけて家に帰った。そのお金が何のためだったのか、彼女に教えてやりたかったが、僕は心に決めて絶対に言わなかった。男のプライドとは、そういうものなのだ。つまらないものだ。

 僕は川下に向かいながら泣いた。その足でバイト先のコンビニに向かった。そして「親が離婚して突然引っ越すことになってしまった。もうバイトを続けられない」という旨を伝えた。たぶん、泣きはらした目だったのでそれなりに真実味があったのだろうと思う。別れたのは親ではない。自分である。その要求はあっさりと受け入れられ、次の日から僕は自由の身となった。これで愛は失ってしまったわけである。これが失恋か、ということを夏休みのベッドの上でひっそりと感じた。まるで砂漠で育てられたバナナを食べているような気分だった。最低でも最悪でもない。もちろん最高でも最善でもないが。心にぽっかりと穴が、なんてこともなかった。何を失ってしまったのか、その大きさも分からなかった。でも、今まで何を手に入れていたのか、その大きさも分からなかった。だから、プラスアルファして、マイナスアルファされたかのような気がした。言ってしまえば、何だか夢から覚めただけのような気がした。ただ、彼女のことは今も昔も変わらず好きなんだけど、と思った。また告白すればプラスアルファがあるような気がした。

 絵を見に行こうか、と考えたのは、別に傷心を癒しにいこうとか、彼女の思い出を引きずりまくろうとか、そういうことではない。そこを目標にしていたのだから、そこに行こうという安易で暇人の考えである。幸いにも一人分プラスお小遣いならもう貯まっているのである。目指すは長野のどこかのお寺の近くの、何とかという誰かの美術館である。しまった、僕は何も分かっていないぞ。仕方がないので、行き当たりばったりの旅になった。宿も取らない。もしかしたらその辺にビジネスホテルでもあれば、そこに泊まるかもしれないが、別に夏の男一人旅なのであまり気にしない。別に二日でなくて、もっと長い旅になってもいいだろう。そしてゼロ泊でも問題なかろう。

 そして僕は一人電車に揺られて旅立った。目指すは長野、全て鈍行で行く。お金はかからないが、時間はかかる。だいたい九時間程度。それを僕は一人車窓を見ながら耐えた。いくつかのトンネルを越え、いくつかの川を越え、自宅から離れていくのを感じるたび、まるで大根の皮を桂むきするように、クルクルと今までの自分が解かれて、その下から全く新しい自分が見えた気がした。失恋して、絵を見に行くというのは、なかなか高尚である気がした。

 そして長野に着いた。ここからである。電車を乗り換えて、山の方へ向かう。綺麗な美術館と言えば、山の上にある気がした。そして長野と言えば、見所は山である気がした。そういうわけで、僕が美術館を作るとしたら山だろう、くらいの気持ちで山に向かったのである。山へ山へ。心なしか空気が美味く、美術館の神聖な雰囲気に囲まれてきたように感じた。空気が涼しくなる。いわゆる、避暑地の雰囲気が自分をセレブへと生まれ変わらせたような気がした。歩き方まで変わってくるというものだ。セレブっぽい歩き方をしていたが、それは山道に適さなくて、すぐに疲弊した。僕はもともと力学的に運動が出来る体ではない。

 ニュートンに聞こうが、アインシュタインに聞こうが、モーツァルトに聞こうが、ピカソに聞こうが、まず間違いなく「君は運動に適さないだろう」としたり顔で言われるような筋力の薄い体をしている。だが、根性だけは負けない。これがスポ根漫画だったら、長い坂道の道程には手強い強敵が現れ、僕の行く手を遮るのだ。そして並み居る彼らをくだし、あるいは仲間にし、坂の上を目指す。そこには光り輝く美術館があり、僕の精神をこの世界から昇華させる素晴らしいルーベンス級の絵画が飾ってある。僕はそんなことをニヘニヘと考えながら、叱咤激励し自分を坂の上へ上へと吊り上げていく。とりあえずは手強い強敵が現れないだけましである。

 そして坂を上りきった僕は見た。ただの田舎の素晴らしい景色を。日本が忘れ去っていた古の風景を。だが、僕が求めていたのは断じてこんなものではない! 僕は意を決し、美術館があるに違いないという勘違い甚だしい自分の妄想を分かってはいたのだが、手ぬぐいを頭に巻いた手近な地域住民のお爺ちゃんに聞いてみることにした。

「この辺に美術館はありませんか」
「へぇー? びづつかん?」
「美術館。絵が見れる場所です」

 彼は思いついたように「ほう」と頷くと、僕を手招きした。案内してくれるらしい。さすがここには日本が忘れた心がある。でも美術館があるだと? 本当にあるとは自分も考えていなかった。なかなか田舎も侮れない。そしてお爺ちゃんの足の速さも侮れない。鍛え抜かれた足腰である。暗に僕という若さと競歩で対決を望んでいるのだろうか。そういう速さである。息も絶え絶えすがりついていく。

「ここじゃ」

 だいぶ歩いて、お爺ちゃんがある建物を指差した。そこはなんと、公民館と書かれていた。何ていうことだろう。これほど歩いてたどり着いた先は公民館。ここに精神をこの世界から昇華させてくれるルーベンス級の絵画があるとは望み薄極まりなくて泣きそうだ。何のために僕はここまで来たのだろう。膝に手をあてて中腰で息を整えていると、「ほれ、こっち」とお爺ちゃんが僕の手を引っ張った。おのれ、小癪な、まだ歩かそうという気なのか。

 お爺ちゃんと僕は、連れ立って階段を上がる。これほど階段が辛いということが初めてだった。とりあえず、いつまで手を握っているつもりなのか問いたかったが、言葉にならない。そして僕らは一つの部屋に入る。

「こ、これは……」

 果たして、そこには一枚の絵があったのだ。

 いや、絵? 絵ではない。切り絵だ。何てことだ。僕は導かれるようにしてここまで来て、こんなものを見に来たというのか。それはこの田舎の風景を描いたのであろう、かなり大きな一枚の切り絵だった。一辺が一メートルはあろうかという、超大作である。それをよく見ると、「肉特売」とか「最終特価」とか書かれた広告を、丁寧に一枚一枚切って貼り付けた様子が見て取れる。そしてここが一番重要なところなのだが、それを絵として見るに、大いに下手糞なのである。僕の苦労を返せと破いてしまいたかった。

「ワシが作ったんじゃ」

 お爺ちゃんが照れ臭そうに言った。そんなことはどうでも良かった。作者の目の前で破いてしまいたかった。僕はその衝動を抑えて、自分がなぜこんなものを見に来てしまったのか長い道のりを思い出した。可愛い僕の彼女だった彼女を思い出した。バイトのことを思い出した。鈍行での旅を思い出した。長かった坂を思い出した。ええい、夏め、なぜこんなに暑いのだ。その下手糞な切り絵の風景は、この僕の無様な心をもれなく表していた。要するに、愉快な歪さ。僕は唐突におかしくなって、腹を抱えて笑った。もう何もかもが僕を勝手に通り抜けやがれ、と思った。僕はお爺ちゃんが話しかけてきても、ずっとずっと気が狂ったように笑った。涙が出るほど笑っていたのだ。

 ここに精神をこの世界から昇華させてくれるルーベンス級の絵画なんてなかった。きっとどこにもない。この歪さを抱えて、このくだらない世界で、それを探し続けるフリでもして生きていくしかないのだ。せめて、愉快に笑いながらでも。それだけは許されている。