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別に好きにならなくてもいいんじゃない

なんかクソ頭が働かないけれど、なんかこー、よく分からない何かが何かしてるので何か書いとこうと思う。こういうとき書いたものはろくなことにならないので、こんなことやってないで早く寝た方が100倍もいい気がする。

とにかく最近はXを見なくなった。喜びや嬉しさや悲しさや怒りで溢れていて、カツ丼しかない回転寿司に入った気持ちになる。なんか凄く疲れるのだ、あのタイムラインってやつは。超ポジティブであろうと、超ネガティブであろうと、感情の共鳴を強いてくる。

ポジティブならいいだろうとかも全然思わない。「東京の有名店で飯テロをして日々筋トレしているような自分磨きしちゃってる系の発言も面倒だよねー分かるー」とかっていうことじゃない。そういう意味じゃない。そういうものだけに疲れるって意味じゃない。

もっと根本的に、ポジティブもネガティブも白々しくなった。本当にめちゃくちゃ白々しい。ビジネスポジティブ、ビジネスネガティブが何でこんな世の中にはびこってるんだ、と思う。どうしてみんなそんな自分の第一感情を矯正しようとしてるんだ、仕事でもないのに。いやまぁ仕事なのか、名前公表してるようなもんだしなもうSNS全般に。

うまい例えが出てこなそうだけれど、何か悲しい出来事があったとする。そうだな、コンビニから好きなパンがなくなった、とかでもいいや。そういうやつ。そういうやつがあったら、いま、どういうやつがSNSに書かれるかっていうと「代わりに買ったパンがおいしくてビビった。新しい出会いに感謝」とかになる。

急にポジティブになる。3年前はそれが意識高いって言われてた。でも今はそういう感じじゃねぇ。まるでポジティブに言葉選びをしないとならないようにみんなそうする。仕事? ビジネスライクに人生生きてるの? まぁもう現代のSNSなんて特にリアルでつながってる人が増えてんだろうか、みんなそうなるのかもしれないな。

ポジティブ方面に倒れるだけじゃない。ネガティブ方面に倒れるとこうなる。「お目当てのパンがなかったよー。思えば昨日人とぶつかったときからいいことがない!」みたいになる。もう関係がない。全く関係がないけれど、これが上司や政府や陰謀論に吸い込まれてくネガティブも増えた。みんながコメンテーターになっていく。

話は変わるけど、僕のパーソナリティで支配的な感情はなんだろうとふと考えていて思い至ったのは、僕は「虚しさ」を嫌悪し、不思議な話だが、すごく愛しているような気がしている。愛しているんだと気づいたのは最近だ。

基本的に人生は虚しい。いま愛している人も、いつか嫌ってしまうかもしれない。少なくとも亡くなるだろう。いま買ったものも、数年後にはゴミになる。少なくとも思い出だけが残るだろう。そんな虚しさを僕はずっと感じていたと思う。諸行無常な世界観のなかに結構生きている。

厭世的、ともちょっと違う。世の中は綺麗だし汚い、その両面の事実があって、どちらに傾いているというのも自分の中にはない。刹那的、ともちょっと違う。いまがよければいいやとは露とも思っていない。

何と表現するのがいいのだろう。自然的、というか、その瞬間の「本物」みたいなのを愛するようになったと思う。だから白々しさが好きじゃなくなった。それは第一感情ではない。「本物」ではないように感じてしまう。

コンビニから好きなパンがなくなったとき、「本物」の感情は、「コンビニから好きなパンがなくなっていてかなしい」だ。僕が愛するのはそういう生理的状態に近いものだ。だからそこから派生しているものに関しては白々しさ、作られたものを感じてしまう。いやいいんだけど。いや、いいよ、いいんだけど。いいけど溢れ過ぎだ。

めちゃくちゃどうでもいい話だけれど「うんこいきたい」っていう呟きはめちゃくちゃ減っただろう。もうSNSが大人になったんだと思う。もうTwitterがXになろうが、Threadsになろうが、BlueSkyになろうが全体の思想が退行することはない。もうSNSの総和が大人なんだ。時々阿呆が現れても、総和がそうなんだ。でも僕はそういうめちゃくちゃどうでもいいけれど、「本物」「本心」「本音」みたいなものを僕は愛する。「うんこいきたい」って言っちゃうやつが好きだ。

虚しい、虚しい、虚しいよね、どうしてこんなに虚しいんだ、そしてその瞬間の「本物」の中に、一握の輝きがあって、その僅かな光の中に、「I am.」が無言で叫ばれているような、ヘロヘロで目がギラついている人を僕は愛している。愛していた。

そもそも何でこんなことを考えてみたんだというと、「登山は好き?」という話になって、特に僕は登山が好きというわけではないと思っているからだ。でもこの前も山登ったし、半月後にも登る。半年後にはまた富士山に登るし、去年も4回くらいは登山した。登山というかハイキングだな。

それで登山が好きかというと、まぁ嫌いではないんだろうと思う。結構僕にまつわる色んなことがそうだ。カラオケに週イチで行ってたりするけどめちゃくちゃ下手で何を目指しているのかと聞かれたりするけれど別に何も目指してない。僕にとってはその瞬間の「本物」を感じるための、どこにも到達しないものがたぶんいっぱいある。

山に登ることに特に意味はない。さりとてそこに山があるから、などと格好つけるなんてこと絶対にしない。ストレス解消とかも関係ない。そんなことは1mmも思っていない。好きで極めたいとも思ってない。極められるとも思ってないし、ここで登山の「と」の字を出す事自体おこがましいほどのライト層であり、何か優秀なギアを持っているわけでもない、集めようとも思ってない、何かに成熟していたり、習慣化しているわけでもない。もっと言えば、やっぱ好きかどうかも分からない。意味がない。僕にとって意味がないんだ本当に。でも、予定はある。

意味がないことを愛してる。理由を求めないことを愛してる。それでいいはずなんだ本当は。どこに到達しなくても、何かが上達しなくても、大層な意味がなくても、それでいて真面目に取り組むことはきっとできる。

好きに生きるとか、自分らしく生きるとか、凄く魅力的で、蠱惑的で、脅迫的で、矯正力のある言葉が流行って久しくて、どこかで書いたけれど、いま、その言葉が指し示してしまうのは「憧れ」であって、「現状受認」ではない。凄く現状否定的な言葉として取り扱われてしまっているように思う。「ありのまま」は、なぜか「これではないわたし」を指しているように思ってしまって仕方ない。意味を紐づけてしまっているように思えて仕方ない。

別に物事を無理に好きにならなくてもいいし、無理に嫌いになることもない。仕事でなければ日々の暮らしに意味を求め過ぎる必要もない。本心ではないポジティブに換言しすぎる必要もないし、無関係なネガティブに紐づける必要もない。

虚しい、虚しいっていいながら、くだらねぇ、マジでくだらねぇ瞬間を、意味を別に形作らず、そのときの第一感情を心いっぱいで感じつつ、それでいてちゃんとした社会性を持って、人と泣いて笑って、自分が生きる贅沢さと貧相さを、さらさらと浴びて生きていきたい。

そういうことすらも言葉にすると嘘になるんだ。

意味なんてなくていいじゃないの。