斯くして、2023年8月26日
ピアノを買った。
娘がピアノを習っていて、上達のためには家にピアノを置いた方がよいと言われたためだった。まぁ実際そう思うし、もしこれで娘のやる気がなかったとしても僕か妻が触るのだろうし、特にマイナスはないなと思ったのだった。
なんかもうタッチが全然違うっていうので最初はアップライトの、なんつーんだ、物理? 電子じゃない方を買おうとしてたんだけれど、家の設計を自由にしすぎたせいか全くピアノが搬入できないという絶望の状況が発覚したので、やむなく電子にした。
まぁ今思えば、毎年調律いらないし、録音とかもできるし、しょせん僕の耳じゃタッチも音もそれほど違いが分からないので、電子で良かったんじゃないかと思う。なんかいろんな機能ついてるの凄い。使いこなせない。
クロノクロス、時の傷痕を弾けるようになるぞ!(もはや娘のものではなくなってる)(妻もずっと練習してる)(娘はほとんど触ってない)
閑話休題。
ピアノの先生には娘にはピアノの才能があるんじゃないかと言われた。ので、ピアノを買ったというのもある。が、父から見て娘にその片鱗は全く見えない。確かに僕は音楽がない家庭に育っていたので、この年で音痴じゃないのすごいなーくらいには思うんだけれど、それくらいなもんで、それはピアノやってりゃみんなそうなる気がする。
才能というものに関して僕は割と懐疑的、というか、考えても意味ねーなと割と思っている。自分の才能の如何であれば、どちらにせよ「僕は天才じゃけん!」とチャレンジして継続しなければ、意味のあるものにならないし、他人の話であれば自分にはあまり関係ない。
というよりも天才的なミュージシャンがいて、それが間断なく素晴らしい音楽を作ってくれるのであれば、マジ素晴らしい感謝、多幸しかないので別に考える必要はない。もちろん昔からそうだったかといえばそうじゃなく自分の無才能を呪っていたし、超能力系統の才能についてはいまだに発現を待っている。
ただ、どちらにせよ修練の果てに磨かれる、あるいは発露する才能であれば、修練しなければ意味がないし、習慣になっていなければ天才の域に到達できない。結局のところ天才の所業というのは、速く行くにせよ、長く行くにせよ、普通は行けない場所に継続的に歩いていった人物が得られるタイトルなのだ。
たぶんどっかにはいるんであろう、「なんか僕やっちゃいました?」系の天才については、外れ値であろうので放っておけばよい。きっと世界をいい方に変えてくれる。と、考えているよ。
という目で家族、とりわけ子どもたちの成長についても見ていて、まず子どもたちに持ってもらいたいのは才能が何たるものと考える前に、「何かを変えられるやろ」という楽観的な自己効力感である。なので習い事では、成長実感というか、なんか変わったねぇっていう感触を得られるように付き合っていきたいと思っているよ。
そういう意味で、ピアノの才能があるかもしれぬ、という評価は、環境として「親の付き合いが良い」くらいに先生が思ってくれた気がする。子供の才能なんてどれくらい親が付き合ってくれたかも大きいよね。僕の親は剣道にずっと付き合ってくれたけれど、僕には剣道の才能はゼロだったけれど。