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37歳になる息子の母は58歳になった

この記事は前職のとあるオウンドメディアに執筆したものですが、そのメディアが閉じてしまったので、許可をもらってこちらにサルベージしたものです。

家族、思い出について、つらつらと書く。

娘が生まれて二年が過ぎ、娘はおまるでトイレができるようになった。オリンピックで優勝したかのようなドヤ顔を見せたその瞬間の娘の写真は、またたくまに親族間に流出し、その尊さときたら国宝のいくつかを軽く超えた。その一報を受けて、僕は感動して少し涙が出た。

どう少なく見積もっても、娘が明らかに世界で一番可愛いのだけれど、どうして世界はこの娘を放っておいているのだろうかと世界の仕組みに異議を唱えたくなったり、親を任せてもらえていることがありがたくなったりする。人として成熟するまで待っているに違いない。どう考えても娘は間違いなく、これからの世界の主人公になりうる。

いやみなまで言うな。「自分の子供が世界一」とはよく聞く言葉だ。知っている。分かっている。もちろん僕がその完全催眠に陥っている可能性は否定できない。だが、この場合、全ての大人はかつて子供だったわけで、僕ら全員にはどうであれ親がいた。

とするならこの言葉にならない熱い愛に世界は満ち溢れてるに違いないはずなのだ。しかし、現実は平和なんて結実していない。みんなはこの平和な気持ちを感じていない。つまり、それは僕の娘が一番可愛い証左ではないだろうか。違うっつーのかこのやろう。


ところで、僕が37歳になったせいで、母は58歳になった。

多少の誤差はあるかもしれないけれど、僕は母が21歳で生んだ子だった気がする。僕は三人兄弟の長男で、僕から4年空けて次男が、さらに2年空けて三男が生まれた。たぶんそれも標準的なことなんだろうけど、僕から見ると、母は三人の息子たちをとても可愛がった。というか今も可愛がっている。その大きな愛を受けて、玉のような息子であったところの僕は真っ直ぐにすくすくと育った。

どういう仕組みか分からないけど、僕の小学校では母の日が近くなると50円でカーネーションの造花が校内で買えるようになっていた。今はそんな制度があるかは分からない。ざっと考えみただけで、現代の事情にマッチしない数個の問題を考えつくので、今はないかもしれない。だいたいあのカーネーションはどこから来ているのか、いまだもって僕は知らない。ただ、僕の小学校ではそのころカーネーションの造花を子供が学校で手に入れることができた。

その当時も今思うと、そういうイベントがあることはあらかじめ親に知らされていたのかもしれない。でも玉のような息子であったところの僕は、母に内緒であることが重要だと考えていて、朝から50円を握りしめ、学校でカーネーションを買って隠して帰っていた。もったいぶってから母にそのカーネーションをあげると、母は両手を広げて驚いて、あらん限りに喜んでから、僕を抱きしめてくれた。母はいい匂いがするから、僕は嬉しかったのだと思う。

「母の愛とは何か」と聞かれたら、僕は「ヴィックスヴェポラップだ」と答える。ご存知だろうか。ヴィックスヴェポラップを。僕の周りでは僕以外だれも知らない。知っている人に出会ったことがない。ヴィックスヴェポラップとは、大正製薬から出ている塗り薬である。メントールが入っていて、体に塗ると呼吸を楽にしてくれる。

僕は小さいころ喘息持ちだったので、夜、軽度の呼吸困難になることがあった。風邪などをひくともう最悪だった。成長とともにそれは改善され、そしていつしか完治したが、幼いころ、僕がその状態になると母は夜つきっきりで布団のそばにいてくれて、背中にそのヴィックスヴェポラップを塗ってくれた。あのときは直接言えなかったが、ヴィックスヴェポラップはあまり効くものではなかった。

次男は次男でアトピー持ちの子だったから、やはり夜通し母に背中をさすってもらっていたのを見ていた。僕が彫刻家であれば、病気の息子より苦しそうな顔をして僕らの背中をさすってくれた母のその姿で銅像を作り、「母性愛」というタイトルをつける。

母の父、僕の祖父が不慮の事故で亡くなる数時間前、僕が病院に着いたときには、母は泣いてはいなかった。もうその時点で祖父の容態は絶望的で、急に訪れたその不幸に、親族は暗く沈み、僕の視界もぐるぐる回っていた。ベッドのシーツだけが妙に折り目もなく、祖父をくるんでいたのを覚えている。

その中にあって、母はやっぱりちゃんとしていた。てきぱきと事務的なことをこなし、ちゃんと感情の処理をしようとしているように見えた。やっぱりちゃんとした人なのだと思ったけれど、でも明らかに無理をしていて、月並みな言い方をすれば、母の姿は物凄く小さな一人の人間だった。

僕が最後に母に抱きしめられたのは、おそらく中学1年生のとき、初めての中間テストでそこそこいい点を取れたときだった。頑張ったことを母が褒めてくれたことを覚えている。祖父が入院していた病院を僕だけが一時的に出るエレベーターの前で、そのことを僕は思い出していた。

だから生気を失くし、枯れ枝のようになっている母を抱きしめることにした。それが家族だから当然のことのように思われた。もうそのとき僕は生意気な大学生で、母は一瞬驚いたが、すぐに泣きだしてしまった。僕は黙って背中をさすった。当然僕だって悲しかったから、感情を共有できたことが、そのとき大切なことだった。


そんな母も、もちろん父も、初老と言える年になった。

多少神経質な嫌いがある母は、僕からみて昔から別に体の強い人ではない。最近では胃腸の調子が悪いわ、腰が痛いわ、腫瘍が見つかって良性なのか悪性なのかで、それもまた精神をすり減らしている。いまのところ、全部良性で別に差し障りないのだが、もう歳も歳なので、本人はもとより、息子としてもロシアンルーレットを何度か受けている気になる。

多くの人がハッとさせられるからか、少し前にTwitterでバズっていたものがある。あと何回母に会えるかの試算だ。親元を離れている人がほとんどだと思うが、お盆と正月だけ帰省するとして一年間に5日、母に会うとする。その計算でいうと、あと30年、日にして150日、人生の中で母に会えればいい方だ、ということになる。

とても残酷だけど、この数は多くの人にとって真実だ。


日常的に気をつけていることがある。

家族にせよ、同僚にせよ、一日の終わりで他人と別れるとき、その人が日常的に会っている人で、例え次の日も会うことを約束されているとしても、これが今生の別れになると思って悔いのないようにしよう、と思っている。

と言っても、毎日泣いて別れを惜しめとか、ハグをしてキスをしろとか、そういうことではない。日々はうまくいかないことばっかりで、人間関係なんて特にデフォルトうまくいかないもんだから、優しくできなかったとか、ケンカ別れしたとか、そういう日は絶対にある。

でも、そういう日の夜に自分が死ぬとして、「ああ、あいつにもっと優しくすれば良かった」などと、今際の際に後悔をしたくない。あいつと距離が開いてしまったままだな。あいつともう一度会いたかった。あいつをもっと可愛がるべきだった。あいつと一緒にもう一度食事をしたかった。あいつの手を握ってやればよかった。あいつと最後に言葉を交わすべきだった。そういう後悔はしたくない。

人と仲良く手を振って別れたにせよ、ケンカ別れしたにせよ、それまでの思い出は嘘ではない。それを大切に思うと、いまこの瞬間、一時のタイミング、一時の感情で失敗してネガティブな状況であっても、改善したいとおおむね思える。いい思い出の終わりが後悔なんてあんまりだ。「なくしてから初めてその大切さに気づく」やつは、いささか想像力が足りないと思う。

その朝は、いずれ必ずやってくる。


それは母にも妻にも娘にも言える。

母は58歳になった。37歳の息子を持つ母にしては若い方だと思う。でも「その朝」は絶対に近づいていることを無視はしない。全くそんなつもりは全然ないのだけれど、母が「冷たい息子たちだ」と口をとんがらせることが増えた。僕としては、一つの別れが今生の別れになっても後悔しないつもりなのだけれど、母にとってはまだ足りないということなのだろう。親はわがままだ。もっと母と会話するべきなのだと思う。

ここ最近、引っ越しの事情があって、週末のたびに僕は実家に帰っている。母はいま、隣でポテトサラダを作っている。先週もポテトサラダだった。母は僕が気づいているとは気づいていないかもしれないけれど、ポテトサラダは僕の好物だから母が毎週作っちゃうのだ。僕はもっと頻繁に病院に行って定期検診を受けろという。母は息子に年寄り扱いされることを嘆いている。

「思い出を大切にしよう」と人は簡単に言うけれど、思い出とは、きっと過去に飾る宝石の類ではない。きっともっと実践的な、他人との未来を正しい形に持っていく、指針のようなものなのだと考えている。思い出に対して誠実でいたい。母が僕を愛してくれている。どうして悪いことができようか。僕も娘に対して、同じように接したいと思う。