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モチベーションの生まれ方

小学校はつまらない、と娘が言い始めた。

重い話ではない。なんてことはない、半年前に小学校に通い始めた娘は、勉強が嫌すぎるのだ。取り立てて勉強が分からないわけでもないようだが、とにかく勉強が嫌い。だから勉強で座っていなければならないのが苦痛。

その代わり全力で遊ぶ。土日も必ずどっか行きたいって言うし、家にいるときも何かしてる。なので幼稚園から小学校に上がって、勉強の時間が増えて、そもそも遊ぶ時間が少なくなったことが不服なのだ。「20分休みが20分しかない」などと時間の定義を揺るがすことを言い、だから遊べないのだ、とのたまう。

誰に似たの……。

この辺は自分が「遊べ、とにかく遊べ」と育ててきた弊害なのかもしれない。幼稚園も小学校も「がんばってこい」と送り出さないようにしている。自分の子育ての方針が遊ぶ元気がありゃ何とかなるでしょーなので「今日もいっぱい遊んでこい」としか言ったことがない。


湧き水を掘ったことがある人はいるだろうか。――いや、いないか。いないのか。なんか当たり前の経験だと思っていたけれど、考えてみるとそんないない気がする。

僕が生まれ育った地域では穴を掘れば湧き水が出ると言われるくらい地下水が豊富なところで、実際めちゃくちゃ湧き水が出る。例えば少し川で水遊びをしようと思って、石をどかすと水が湧いている。そういう場所で育った。

一度困ったのは更地で水たまりができていたので、穴を掘っていったら水が止まんなくなっちゃって、しこたま怒られたのだけれど、いまそこは池になっている。そういう場所だから湧き水を掘る、という体験があるのだけれど、それほど人はないのかもしれない。

自分がモチベーションというものを考えるとき、イメージしているのはその湧き水である。「あ、モチベーションの源泉ってヤツかぁー」っていうとちょっとニュアンスが違う。僕の持論でしかないが、モチベーションはその源泉から湧くものの一つの表現でしかない。

その泉から湧き出るものは「快感」である。これもまぁ僕がそうイメージしているだけだけれど、人間というか動物の最も根本的な感覚は快か不快だと思っていて、人間の心のどこかには「快」が噴出している場所がある。その快が噴出している状態を単純にモチベーションが高いと言えるのだと思う。

ここで言っている快感というのは「いい点数を取りたい」とか、「褒められたい」とか、「高い給料が欲しい」とか、そういうことですらない。「褒められるのが嬉しかったから絵を描き続けた」わけではない。そこには本当はもっと根本的な、根源的な「ペンを動かし続けた理由なき衝動」があるはずだ。もっとできるならもう一段階源泉に近づいてみたい。本当の快感は「形を見るのが好きなんじゃないか?」というところまで。

モチベーションの泉を作るためには、その源泉の場所が分かってることが重要だ。大人になってくると、その源泉はとても見つけづらい。なので湧き水を掘るようなことをイメージする。水の流れがあって、どこからか噴き出していることだけが分かる。習慣や、経験や、先入観や、自己否定や自己肯定、その他のさまざまに生きてきた歴史が堆積していて、源泉までたどり着くのはなかなか容易ではない。

自分のも見つけづらいし、人のも見つけづらい。ただ、一個一個、石や土をどけてあげると、途中でぶわっと水が強くなったと感じることがある。それは自分にせよ人にせよ、最も根本的な「快」の部分なので、僕はその源泉なら信じることができる。

これはコーチングでいうところの「want to」とかっていうんだろうと思う。でもあんまし別にコーチングが好きってわけでもないし、学んでるってわけでもないから、それになぞらえることはできないけれど。

まぁそういうやつがモチベーションの手前にあると思っていて、人の向き不向き、やる気、モチベーション、などの関連に立ち会うとき、この湧き水のイメージがいつもある。そもそも水の力が弱ければ、自分に気づいてもらう、単純に休んでもらう。石や砂利に邪魔されていれば、固定観念に気づいてもらうようなイメージ。


果たして、娘のその源泉はどこにあるのだろうと最近は観察しているし、もしかして源泉ができる瞬間に立ち会えるのが子育てなんじゃないかと思っている。

まー勉強は嫌だよな。お父さんも宿題1mmもしなかったよ。今のところそれより大切なことは、健全に遊ぶことだと思っている。勉強が嫌なのが、学校が嫌につながらないといいと思いながら。まぁたくさん遊べ。

そういうところからチロチロと水が湧き出ると信じている。