公私は分けたほうがいいですか?
アイキャッチは娘の作品、「あめ」
「正訓さんってプライベートも仕事のこと考えるの辛くない派ですか」という話を同僚とした。特に深く考えてないなぁが瞬間的な答えなのだけれど、少しだけ深堀りをしてみる。
まず僕は公私をキッカリ分ける方じゃない。そりゃ仕事中は仕事しかしないけど。昼休みとかは在宅なら割と自由に家で散歩しに行ったり、レザークラフトやったりするし、逆にご飯食べながら仕事をしたりする。
プライベートでトイレとか風呂とかご飯とかオートパイロットで動ける行動中は仕事のこと考えてること多いし、仕事柄なんかのエラーとかアラートがスマホに届くことも多いし、そりゃ仕事のために仕事の本読んだりするし、タスクリストは公私分けず一つにしてるけど、特に支障はきたしていないと思う。この記事書いてること自体が仕事のことを考えてると言えばそうかもしれない。
逆にプライベートを仕事が侵食しすぎているかというとそういうわけでもないと思ってて、浅さの極致みたいな趣味と言うのも恥ずかしい趣味も割と多いし、子どもたちと遊ぶのも楽しいし、ソシャゲやってる時間も割と長いし、できたら一生寝ていたいと思う気持ちにも嘘はない。
それら両方の自分が緩くグラデーションかけられていて、両方大事だ、というか、両方特に区別する必要性を感じていない。なので「正訓さんってプライベートも仕事のこと考えるの辛くない派ですか」という問いに関しては「特に辛くない派だなぁ」が答えになる。
ただ、気をつけていることはいくつかある。
例えば当たり前の絶対なんだけど、そのマインド、働き方を人に強制しないとか、期待しないとか、あるいは人のプライベート領域の関係や媒体(例えばTwitterとかnoteとか持ってるのも普通の時代だと思うけど)が匂わされても特に乗り込んでいかないとか。それはもうマナーというかルール違反なので。自分のアカウントはもはや隠してないのでフォローとかしてもらえたら、「あ、相手も隠してないんだな」とか思ってフォローしたりするけど。
あとこれもずっと気をつけているんだけど、ストレス発散のために趣味をすることはしない。やりたいから、楽しいから、するようにする。なぜかっていうと、それも手法としては効果あるとは思うんだけど、「仕事のストレス発散のために趣味したらそれって仕事のためじゃない?」って思っちゃう。
それは嫌だからストレス発散のために何かを意図的にすることはしない。でもいまそれを言葉にすると少し不思議だな。公私分けないって言ってるくせに、ここはキッカリ分けようとしてるのは。
たぶんなんだけど、自分の「したい」という思考行動にあんまり理由をつけたくないんだと思う。そこは自由にさせてくれって感じている気がする。だから自己責任において、成果を出したり成長したり何か楽しいからってだけでもいいんだけど、自分がそれを淀みなくよしとできれば、公の時間に私を出す必要も感じてるし、私の時間を公に使うのも別にいとわない。
本当、人によって違うと思うし、これが正しいとも思わない。どちらかというとメリハリのないダメな方だと思うから、成果計測はすべきなんだと思う。
でも心身ともに健全で、どっちにも傾きすぎない芯みたいなものがないと、少なくとも公私を一緒にすることができなくなると思うので、この「自分をよしにする感覚」ってものはずっと感じていられるようにしたいな、とは思う。