葉脈、秋の前、あるいは「思い出テスタメント」の本について
今となっては、「中途半端」は僕がたどり着いた境地だと思う。僕は自分が中途半端であることを認めているし、そのことを卑下するつもりもない。卑屈に思っていることもないし、むしろ今は誇らしく思う。まぁもっと成長すべきだとは思うが。
中途半端、無理にいい言葉で換言すればジェネラリストということになるのだろうけれど、基本的に僕は多くのことをやりたいと思いながらだいたいのことがうまくできない。うまくできればジェネラリストと呼べるだろうが。ずっと昔からそうだった。僕は僕の人生で、ものごとをうまくできたと思えることがあまりない。
世の中にあまねく存在する「勝つセオリー」は長所を磨くのが鉄則だ。経営学者からその辺の情報商材売ってるやつまで、「勝ちたいなら短所を放って長所を伸ばせ」と言う。この遺伝子に感じる圧迫感と焦燥感はきっと類人猿のころからそう言われているからに違いない。
何かが違う、と思っていた。
根本的に勝ちたいわけではないし、かといって負けたいわけでもない。そう思えない僕はきっと野生をどこかに忘れてしまったのだと思った。そして僕にとって「うまくやる」とは何なのか、と気づくまでに、僕は大学を辞めて、鬱々としたフリーターとなった。
これはこの先の人生でも何度も思い出すだろうから何度も言うけど、コンビニのバイトで同じ深夜のシフトに入っていたオバサンがいた。「20歳以上でフリーターやってるやつなんて負け組だと思う」と、その20歳以上でフリーターやってた僕の目を見て言っていた。その時は本当に悲しかった。
なにかに勝つ必要なんてない。いや勝った方がきっといいんだろうけれど、そこは僕にとって重要じゃなかった。牙を抜かれた動物だと思われてもいい。「自分らしく」とか「好きなことで」とかを、ことさらに叫ぶことは僕には「勝つこと」とそんなに変わらず、少々野蛮に感じる。僕はたぶん勝つとかは関係のないところで、「うまく」やりたかった。
人を見るようになった。ときどき世の中の人に「うまくやられた」と思うことがあったから、何かしらのヒントがもらえるような気がしたのだろうと思う。さまざまなことを「うまくやる」人たちを見た。それを自分の中にトレースできないか考えた。
そして僕は人をトレースすることで、中途半端になることをよしとした。いつかうまくできることもでてくるだろう。僕は人の長所を見つけることをよしとした。僕は人の長所を見つけるのがたぶん得意になった。しかし僕の長所は見つからないままだった。どうしようもないやつだ。
ただ、そうやって僕が「うまい」と思うことには、僕の中で曖昧な、しかし確実な一つのしきい値があることに気がついた。僕のなかで「うまくできること」とは、「人に感動してもらうこと」なのだと気づき、信じるに値する指針だと分かった。
僕はずっと人に感動して欲しいのだと思う。
ずっとそうなんだと思う。なぜなのだろう。不確かだけれど、僕が鬱屈に囚われ、灰色の世界から抜け出す力をもらえたとき、僕は誰かから感動を与えてもらっていたからだと思う。それは他人かもしれないし親族からかもしれないし作品かもしれない。とにかく感動は人を良い方向に導くと今も信じている。
だから感動を作りたいのだと思う。たくさんの純粋な感動は、たくさんの人をポジティブな方向へ導くはずだ。人を励まし、人を勇気づけ、きっと戦争を止める力も感動だ。そう信じた。
15年ほど前、僕はコミケにいた。
日差しの強い、暑い日だった。僕は初めてコミックマーケットという場所に行った。しかも売り手の方だった。ネットで知り合った13人が、思うままに一人の少女を中心にした小説を何の打ち合わせもなく書き始め、そして書き切り、ネットで公開し、共著で小説を出すというトチ狂ったことをした。
ただ僕は何もしなかったし無能だった。編集技術もなかったし、当然金もすっからかんだった。コミケに小説の部があることをそのとき初めて知った。僕はただ苦しんで小説を書き、本にしてくれた人に感謝を言いながら、現地に向かい、そして少しばかり荷物運びをしただけだ。
なぜその状態になったかは、誰かがどこかに書いているだろう。ここで詳しく語るつもりはない。そのときの関係者数人とはまだ連絡が取れる。ネットから始まった20年来の友人ということになるが、友人と表現するのはあまりしっくりこない。首謀者の一人はいまは北海道のカラオケ屋の社長とかをしているだろう。まぁ人生色々あったな、と思う。
僕にとって、そのコミケで、段ボールを持って、強い影、駅が近い、階段の上、あの陽光のなかで、みなで笑う、あの情景は、そう、今思えば、僕にとって、「精算」だった。遅れに遅れた、青春の精算だった。
それからも厨ニは長かったが、最後の青春はどこだったかと今思い返せば、確かにあそこの瞬間だった。僕らは確かにあのとき青春の中にいた。そして、たぶんあのリフレインをずっと感じている。また感じたいと思っている。そしてもう本当の意味で、あの夏には帰れないだろう、と分かっている。
それは絶望ではなく、人生というのは、それからも別の大切なものをくれるからね。
その時の本は未完だった。何しろ13人が気ままに書いた上、何に納得できなかったか、件のカラオケ屋社長が一人でその長さを3倍くらいにして完成度を高めた。アホすぎる。そのため1冊には収まらなかったし、2冊以上を出す金も手間もなかったのだと思う。そして絶望的に売れなかったはずだ。なので、本当は4冊になるところが、1冊しか出せていない。
そして10余年が経ったころ、Twitterのメンションが届いた。
https://twitter.com/vostok8/status/1382285545615683585
何言ってんだこいつ、と思ったのがもう2年前になることに驚いている。そして「耳を塞ぐ」と「刮目」をツッコんで欲しかったのだろうと今気がついた。そのときは気づかなかったが、気づかなくて良かった。
このしょーもないツイートで知ったんだけれど、ふぃーさんという方が、どういう出会いかは知らないけれど、昔書いた小説を読んでくれたとのことだった。そして自分が書いた部分を気に入ってくださったらしかった。
こういった潤いをどう表現すればいいだろう。
とにかく感謝が先に来た。15年前に孤立した作品に出会ってくれたこと、時間を使ってくれたこと。なにより「感動した」と言ってくれたこと。それが僕の欲しかったものだったから。僕はほとんど何かをするときはそれを目指す。
でもなかなか与えられるものではない。必死にやっても「うまく」できない。僕にはいろんな才能がない。ただ、少なくともあれは書くとき苦しかった。色んな制限のなかで、でも、自分なりの感動を入れ込んだつもりだった。それが伝わる人がいたんだ、という驚きがあった。こちらこそ感動した。
見つけてくれて本当にありがとう。
そして少々ふぃーさんは狂っていた。(褒め言葉)
今日という七夕、一つの冊子が届いた。「思い出テスタメント」、このサイトの名前を冠した、僕が書いた部分の小説だった。彼女曰く、「どうしてもやりたかったからやった」そうだ。情熱やバイタリティが異次元のそれだ。何なら以前コミケで出せなかった3冊も現物が連絡の取れるその時のメンバーに届いたはずだ。そんなことってある?
いや、ない。普通はない。あるはずがない。普通はないはずだが、起こり得た。「思い出テスタメント」の解釈も凄い。完全に読み込んでいる。挿絵も豊富に入っている。手抜き一切ない完全版。それが作者に逆刊行されたのだ。どうやらもう販売はしていないようだけれど。
こういう人がいるんだ、と思う。彼女の燃料がどこにあったかは分からない。僕が書いた小説が端緒になってくれていたのなら嬉しい。嬉しいが、じゃあ彼女に何を応えられるだろう、と考えるのは違う。たぶん違う。それはダサい。
そうではなくて、彼女が見せてくれた世界観は、「自分が信じることをしろ」なのだと思う。だから僕は「感動をちゃんと作ろう」ということ、そういうことなのだと思う。そんなことを思わせてくれた。久々に自分の文章を読み直した。ちゃんと書いてるなと思った。
もっと感動を。